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火山の研究史


ギリシャ・ローマ時代の火山観
2016.7.18
 灼熱した溶岩を流出し,はげしい爆発を起こす火山活動は,古代人にとってはまさに驚異の的であった。イタリアのエトナ火山は,古代ギリシャ人によって,火と技術の神ブルカンの鍛冶場だと考えられており,またハワイ島では,ヒステリックな女神ベレーによって,しばしば大地が裂かれ,噴火が起こされると信じられていた。このような神話や伝説は科学思想が発達するまで続いた。

 地中海やエーゲ海地方のストロンボリ,エトナ,ブルカノ,サントリンなどの火山は古くから知られていた活火山である。

 したがってギリシャの哲学者のあいだには,はやくから火山に対する考えが述べられている。ピタゴラスは地心に火があると考え,エンペンドクレスは,地・水・風・火を四元素とし,エトナ火山の観察から地心が溶融しているものと想像した。さらにアリストテレスは噴火におけるガスの役割を重視し,地球内部の空洞におしこめられた空気が激しい勢いで地殻を爆破して噴石や火山灰を放出すると考えた。

 続くローマ時代には,ストラボーがエーゲ海のサントリン島近くの火山島の誕生を記述している。そこには一般に火山島が地下の火によって生ずるという考えや,火山が地下に蓄積されるガスの安全弁の役割をもち,頻繁に小噴火を繰り返す地方では大噴火や大地震が少ないという考えが述べられている。

 ついで,皇帝ネロの侍医をつとめたセネカは,火山を地球内部の局所的な溶融体の部分から地表に通ずるパイプであると見なしている。この考えは,今日の火山観と異なるものではない。彼は当時のおもな火山としてエトナ,ストロンボリ,ブルカノ,サントリンなどを挙げているが,休止期にあったベスビアスにはふれていない。

 ベスビアスの歴史的噴火は,セネカの死後AD79年に起こった。その噴出物はポンペイやヘルキュラニウムの街を全滅させてしまった。そのころの博物学者大プリニウスはこの噴火の調査中に火山灰を含む熱風のため遭難し,甥の小プリニウスがこの噴火のようすを詳しく記述した。この記録は火山学における最初の噴火記録として,しばしば引用されている。

(勝井義雄,1976)

岩石学発生以前の火山形成説
2016.7.18
(1)死火山の発見
 フランスのゲタールは地質図作成に専念し,南フランスのオーベルニュ地域の火山群がイタリアの活火山に似た構造をもっことを発見して,はじめて死火山が注目されるようになった。しかし,当時は偏光顕微鏡もなく,彼は黒くて緻密な柱状節理をもつ玄武岩を水成岩と考えた。これに対し,デマレはオーベルニュの玄武岩がイタリアの活火山の溶岩と同様に溶融状態の溶岩が固結したものであると述べた。

(2)水成説と火成説
 高名な地質学者チッテルは1790〜1820年の約30年間を地質学の英雄時代と呼んでいる。この時代のはじめは玄武岩の成因をめぐって論争が展開し,ドイツ以外では,すでに火成源であるという結論がえられながらも,ウェルナーの強い影響下にあったドイツでは,この論議にしばらくの時間が費やされた。

 フライブルグ鉱山学校の教授として,多くの地質学上の貢献をしたウェルナーは,火山のないサクソニーにとじこもっていたため,花崗岩・玄武岩をふくむすべての岩石は機械的・化学的に水中に沈積してできたとする水成説を主張した。この説によれば,活火山でさえ地下の石炭層の燃焼に伴う現象と考えられたのである。

 ウェルナーは水成論者の中心にあって多くの有能な弟子を育てたが,この弟子たちの世界各地での見聞は水成説を自らくつがえす結果となった。例えば,中南米の諸火山を調査した弟子のフンボルトは火山の帯状配列に気づき,しかもこの分布域に地震が発生する事を見出して,火山現象が決して局所的なものでなく,地球の内部構造と深くかかわっていることをはじめて認識した。

 一方,エジンバラのハットンは花崗岩が片岩を貫いている事実を観察し,地表で固化した鉱滓状の溶岩も地下で固まった結晶質岩石も,同じ火成岩であると述べた。また火山作用は地下のエネルギーのはけ口であり,安全弁の役割を果すものであると説いた。

 この考え方はウェルナー学派に対するもので火成説と呼ばれている。ハットンの火成説はドロミューによる火山岩の産状と結晶度の観察や,ホールによる岩石の溶融実験の結果などからも支持され,ウェルナーの死後,水成説はかげをひそめたのである。

(勝井義雄,1976)

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